自由と危険
- Manish Nukii

- 2016年3月10日
- 読了時間: 4分

タントラやヨガによれば
人間の狭さこそ問題だ。
あなたは自分自身を狭くしているから、
常に束縛されているように感じる。
その束縛は、ほかでもない、
自分自身の狭いマインドに由来している。
そして、マインドはどんどん狭くなり、
あなたはますます閉じ込められる。
閉じ込められるから、
束縛の感覚が生まれる。
あなたには無限の魂と
無限の存在がある。
その無限の存在が拘束を感じる。
何をしようとも、
いたるところに制限を感じる。
どこへ行っても袋小路が現れる。
それを越えていくことができない。
あらゆるところに境界線がある。
羽を広げるべき大空がない。
でもその境界線は自分が
作りだしたものだ。
その境界線は自分の創造物だ。
それを作ったのは安全のためだ。
身を守るために、
あなたは境界線を作った。
境界は狭ければ狭いほど
安全に感じられる。
もし境界線が長大なものだったら、
全体を見渡せなくなる。
全体を注意して監視できない。
無防備になる。
でも狭ければ監視できる。
閉じていれば防御もできるし、
安全に感じられる。
安全こそが境界線を生み出した。
でもそうすると束縛を感じてしまう。
ここがマインドの逆説性だ。
大きな安全は欲しいし、
大きな自由も欲しい。
でも、どちらもというわけにはいかない。
自由が欲しければ、安全は失われる。
どのみち安全などただの幻影だ。
真にそこにあるわけではない。
そのうち死がやってくる。
何をしようとも、
あなたは必ず死ぬ。
安全などというものは、
すべてただの見せかけだ。
何の役にもたたない。
しかし危険を恐れて、
あなたは境界線を作り、
周りに大きな壁をめぐらす。
すると大空は閉じられる。
そしてあなたは苦しむ。
そして「大空はどこだ」と言う。
また、「自由が欲しい。
自由に行動したい」と言う。
でもその境界線を作りだしたのは自分だ。
あなたは常に壁の中にいる。
たまに、まれに、
その壁から手を伸ばして、
誰かに触れることもある。
でも手だけだ。
自分が牢獄から出ることは決してない。
私たちの出会いというものは
常に牢獄から伸びた手同士の出会いだ。
窓からこわごわと手を伸ばす。
いつでも引っ込められるようにしておく。
両方とも同じことをしている。
手だけが触れる。
そして、心理学者によれば、
それでさえ単なる外見だ。
手にもまた鎧(よろい)がある。
皆、手袋をはめている。
別にエリザベス女王だけではない。
あなたもまた手袋をはめ、
他人からの接触を避けようとする。
あるいは誰かが接触したとしても、
あなたの手は死んだ手だ。
あなた自身はすでに引っ込んでいる。
恐れている。
なぜなら他人が恐怖をもたらすからだ。
だからサルトルは「他人は敵だ」と言う。
自分の鎧が固ければ、
他人は敵のように見える。
鎧をつけた人間に対して、
友愛はあり得ない。
― 友愛は不可能であり、
愛情は不可能であり、
触れ合いは不可能だ。
あなたは恐れている。
「誰かに支配されるのではないか。
誰かに奴隷にされるのではないか」・・・
こんな恐れがあるから、
あなたは牢獄を作り出す。
安全の壁をめぐらす。
警戒しながら進み、
警戒しながら一歩一歩足を運ぶ。
かくして生は鈍重なもの、
退屈なものとなる。
あまり警戒しすぎたら、
生は決して
冒険的なものとはならない。
自分自身を守りすぎたら、
安全を求めすぎたら、
もう死んだも同然だ。
だから根本法則を
ひとつ覚えておくといい。
生は危険なものだ。
危険の中に生きる覚悟が
あって初めて、
生きることができる。
危険とは自由だ。
危険に生きるつもりがあったら、
絶えず危険に生きるつもりがあったら、
あなたは自由になる。
そして、自由こそ<神>への扉だ。
恐れがあるとき、
あなたは牢獄を作り出す。
するとあなたは死んでいく。
ますます死んでいく。
そして、叫ぶ、
「神はどこだ」。
そして問いかける、
「生はどこにある。
生の意味は何だ。
至福はどこにある」
生はそこであなたを待っている。
でも生に会うには、
生のやり方に従うことだ。
あなたのやり方を
通すわけにはいかない。
生には生のやり方がある。
その基本は、
「危険なままでいる」
ということだ。
OSHO「ヴィギャン・バイラブ・タントラ 生の神秘」より
EndFragment
コメント