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内側と外側の調和

  • 執筆者の写真: Manish Nukii
    Manish Nukii
  • 2016年1月19日
  • 読了時間: 5分

私の家族にいい歳の叔父がいる。

彼は商売肌ではなく、生まれながらの詩人だ。

でも、詩ではお金を稼げないし、

詩ではおな腹を満たせない。

それに家族全員が商売をしているから、

学業を修めて大学から戻ると、

彼は当然のように商売に加わらないかと誘われた。

他の仕事に興味はなかったから、

彼はそうするしかなかった。

彼は一軒の店を任された。

私は子供の頃から彼を見てきた。

家族のものがその場にいないときに、

客が店に入ろうとすると、

彼はあっちへ行けと手を振るだけだった。

そんな人間は店をやっていけない。

客は物乞いではない ― あっちへ行けという

手振りなどしていいはずがない!

しかも家族の誰かが見つけたら怒るだろうから

叔父は他の者に聞こえないよう、

黙って手を振るのだった。

彼らは言うだろう、

「店を任せられていながら、

おまえは切り盛りしていくつもりはないのかい、

それとも店をつぶすつもりかい?」

そして彼が手を振った客は二度と客は来なかった。

物乞いのように扱われる店など

行こうと思うかね?

しかも叔父は、実に物憂く不機嫌な顔で

客を見るのだった・・・。

こんなふうでは、店はやっていけない。

客が来ないと彼はとても喜んだ。

一日中、客が来ないと、

喜びはとどまるところを知らなかった。

彼は何行か詩を書くか、

歌を作っていた。

店の元帳まで詩を書いていたのだ!

彼は商売人になることを強いられていたが

彼の本質にそぐわなかった。

彼の実存が窒息するのは当然だ。

同じように、

商売人に詩を書けと強いるなら

それもまた厄介なことになる。

彼は自分の詩の中にさえ

店を開こうとするだろう。

詩のイメージさえも

店の発展のことばかりだろう。

店は良いものでも、悪いものでもない。

詩作はよいことでも悪いことでもない。

よい悪いは一切ない ―

問題は何があなたにぴったり合い、

何があなたの本性にしっくり来るかだ。

そのときは、そのために、

すべてを捨てなければならないとしても、

そうするがいい。

でも、あなたは本性を放棄してはいけない。

たとえ、本性と引き換えに、

全世界を得るとしても、

そちらを取ってはいけない。

なぜなら、それは全く成就などではなく、

欺瞞だったと最後にはわかるのだから。

最終的に、本性だけがあなたと共にとどまる。

すべては背後に置き去りにされる。

私たちはこの世界に本性と共に現れ、

本性と共に去っていく。

その間のすべては単なる物語だ

― それは形をなし、散り散りになり、

そして消えていく。

だから私が「全面的な受容」と言うとき、

いいかね、私は俗世を捨てたサニヤシンや

ヒマラヤに住むサニヤシンを受け容れない、

と言っているわけではない。

違う、彼もまた受け容れられる。

ある人の歌がヒマラヤで生まれないなら、

そこでしかその人のダンスが訪れないなら、

私も他も何者も、彼に世間に

とどまって欲しいという権利はない。

彼はヒマラヤにいるべきだ。

しかし、その歌がヒマラヤのおかげで

生まれると思うこともない。

さもなければ商売人はヒマラヤでないと

歌やダンスは生まれないと勘違いして、

そこへ行ってしまうかもしれない!

― 「私もすべてを放棄して、ヒマラヤへ行こう」。

すると退屈して、意気消沈するばかりだろう。

彼は苦しむことになる。

この歌はヒマラヤや世間にあるのではない。

この歌はあなたの内側に、

あなたの本性の中にある。

あなたとあなたの本性の調和があるとき、

そのときこの歌は生まれる。

それはあなたの外側にあるのではない。

だから、本性と外側の生活に調和があるような

生き方を創造しなさい。

ライフスタイルと、

内なる流れに矛盾のない生き方、

交感や和合や調和やリズムのある生き方、

内側の生と外側の生が足並みを揃えるような

生き方を創造しなさい。

内側では西洋へ、

外側では東洋へ向かおうとすれば、

生には緊張があるだろう

― 問題や心配や苦悩があるだろう。

そして最後には惨めさしか残らない。

きっと瞑想を体験できないだろう。

瞑想とは内なる本質と外側の生活が調和して、

もはや外側が外側でなく、

内側も内側だとは思えなくなったときの

実存の境地だ。

どこまでが内側で、

どこまでが外側なのか、

境界線を引き難いほどの調和があるとき、

ちょうどそのとき、

まさにその融合と交感のとき、

あなたの神性の調和が降りてくる。

緊張があればあるほど、

神性が降り立つのは難しくなる。

調和があればあるほど、

扉が開かれる可能性は高くなる。

人生の終わり方こそ、

いかに人生を生きたかの証しになる。

たとえ死の瞬間であっても

光明に達するなら、死の直前に

究極の充足に到達するなら、

私はあなたの人生において何かを変えるべきだ

というつもりはない。

そして実のところ、

最後まで待つ必要はない。

一瞬一瞬が証しになり得る。

あなたの外側と内側に調和があるなら、

まるで寺院の鐘のように、

毎瞬、あなたの内側で妙なる旋律が

鳴り響くだろう。

あなたの外側と内側に

調和があるとき、

川に近づくと涼しい風に吹かれるように、

内側に清涼感が伝わってくるだろう。

あなたの内側に

調和があるとき、

庭に近づくと花の香りに取り巻かれるように、

香気が ―えもいわれぬ香気が、

あなたの内側で香り立つだろう。

誰かに尋ねに行く必要はない。

自分の生が

正しい道を進んでいるか

否かの基準は

あなたの内側にある。

OSHO.


 
 
 

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