生は常に、今ここ
- Manish Nukii
- 2016年3月2日
- 読了時間: 4分

休息が至高のゴールであり、
仕事はそこに至る手段に過ぎない。
努力からの完全なる自由を伴う
全面的なリラクゼーションこそ
至高のゴールなのだ。
そうしたとき、生はひとつの戯れとなる。
そしてそうなれば努力すらも
戯れとなる。
あらゆる文明は
そのような戯れから生まれた。
詩、哲学、宗教は静養の果実だ。
これは今まで、誰もが
享受できるものではなかった。
が、テクノロジーと科学が近い将来
それを可能にするだろう。
私がテクノロジーに
賛成なのはそのためだ。
労働に本質的な価値を見出す人々は
機械の利用に反対する。
そうならざるを得ない。
私にとっては、
労働にそうした本質的価値はない。
反対に、私はそれを重荷と見る。
仕事が休息の前提条件であるかぎり、
それは至福に満ちたものではありえない。
仕事が休息状態から自然に流れ出すとき、
それは初めて至福にみちたものになる。
だから、私には休息を
罪悪などとは呼べない。
同様に、私は犠牲的精神
というものを支持しない。
私は誰かが他の誰かのために
生きることなど望まないし、
ある世代が他の世代のために、
自己を犠牲にすることなど望まない。
そのような犠牲は結局、
非常に高くつく。
そうした犠牲をはらう人間は
非人間的な見返りを期待するものだ。
父親たちが不可能なことを
息子に要求するのはそのためだ。
もしどの父親もその息子のために
生きたとしたら、誰が
自分自身のために生きられよう?
どの息子もいずれ父親になる可能性があるのだ。
いや、私はあらゆる人に
自分自身のために生きて欲しい。
自分自身の幸福のため、
自分自身の休息のために ―
一人の父親が幸せであるとき、
彼は息子のために多くをなすだろう。
それも楽に ―
なぜなら、それは彼の幸福から
出てくるものだから。
そうしたとき、そこには
犠牲も放棄もありやしない。
彼のなすことは
父親であるということの中から
自然に出てくるものだ。
それも、幸せな父親である
ということの中から ―
そうすれば、自分の息子に対する
非人間的な期待など持ちようがない。
そして、期待から来る圧力がないとき、
期待は応えられるものだ。
息子が息子であることの中から。
一言で言うならば、
私は一人一人に
利己的であることを教える。
利他的な教えの数々は
人間に自殺以外の何ものも
教えてこなかった。
そして、自殺的な人間は他殺的でもある。
不幸せな人間は
自分の悲嘆を
他の人たちの中に
撒き散らすのだ。
私はもう一つ、
現在を未来のために、
犠牲にすることにも反対だ。
在るそのものは
常に現在の中にあるのだから。
もしその中をトータルに生きたならば
未来はそこから生まれ出てくる。
そしてそれが来るとき、
それもやはり現在なのだ。
現在を未来のために
犠牲にする習慣のある者に
未来は決してやって来ない。
なぜなら、やって来たものはまたしても
まだやって来ないもののために
犠牲にされてしまうからだ。
最後にあなたは
私もまた他人のため、
未来のためになぜ働くのかと問う。
まず第一に私は働いたりしない。
私のやることはそれが何であれ、
休息状態の中から
流れ出して来るものだ。
私は泳がない。
ただ、浮かび漂うだけだ。
誰一人、他の人のために
何かするなどということはできない。
しかし、
私が私であることによって
他の人たちに
何かが起こるとしたら
それはまた別だ。
ただし、そこでもやはりやり手は
私ではない。
未来に関して言うと
私にとっては
現在がすべてだ。
そして過去もまた
現在に含まれる。
それは過ぎ去った現在だ。
そして未来も ―
未来というのは
まだ来ていない現在を言う。
<生は常に、今ここにある>
OSHO[ア・カップ・オブ・ティー」より
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