祝祭 Celebration
- Manish Nukii
- 2016年3月2日
- 読了時間: 2分

祝祭こそ私の教えのすべてだ。
礼拝ではなく祝祭だ。
礼拝するとき、
あなたはヒエラルキー、階層を、
高いものと低いものをつくりだす。
礼拝するとき、
何かが神聖なものになり、
何かが世俗的なものになる・・・。
あなたの一部が邪悪なものになり、
一部が神聖なものになり、
そうすると、
絶えざる葛藤や抑圧が生まれてきて、
すべての喜びは失われてしまう。
礼拝する人は
基本的に落ちつきがなく、
病的だ。
祝祭は
全面的に異なる次元だ。
あなたはすべてのものを祝い、
分けるということをしない。
祝う人にとって、
祈りはお茶を飲むのと同じほどに
すばらしいことだ。
お茶も世俗的なものではないし、
祈りもかけ離れたものではなく、
すべてはひとつだ。
教会、寺院、モスク、酒場、
それらはみなひとつだ。
異性と愛を交わすのも、
神に祈るのも同じことだ。
祝祭は分けへだてをしない。
それは結びつけ、
ものごとを一緒にし、
世界をひとつのものに
まとめ上げる。
二元対立は消え失せ、
統合が現われ、
その統合とともに
喜びが生まれてくる。
なぜなら、
そこには争いというものが
ないからだ。
闘争はなく、
征服されるべきものは
何もない。
このまさに祝祭のなかで、
あらゆるものが克服される。
礼拝する人には目標がある。
彼はそれを達成しなければならない。
祝祭の人には目標がない。
彼はそれをすでに達成している。
礼拝はつねに未来志向だが、
祝祭は<今>を志向する。
祝われるのはこの瞬間だが、
礼拝されるのはいつかほかの時だ・・・。
それがサニヤスのすべてだ
― それは神を祝うことであり、
礼拝ではない。
自分なりのやり方で、
祝いなさい。
祝祭にはどのような形式も
ありえない。
礼拝は形式として
化石化してしまうが、
祝祭は生命を失わない。
すべてが聖なるものであり、
世俗的なものは何もない。
OSHO「英知の辞典」より
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