意識consciousness、観照 witnessing、 覚醒awareness
- Manish Nukii
- 2016年3月4日
- 読了時間: 5分

覚醒と観照の違いは大きい。
観照というのは依然として行為だ。
<あなた>が観照している。
そこにはエゴ、自我がある。
だから、観照という現象は
主体と客体に分裂している。
観照は主体と客体の関係だ。
覚醒にはいかなる主体性も客体性もない。
覚醒においては、
観照している人は誰もいないし、
観照されている人も誰ひとりいない。
覚醒とは全体的な行為だ。
統合されている。
そこでは、主体と客体が関係づけられずに、
溶け去っている。
だから、覚醒とは誰かが
醒めているということではない。
また、注意が払われている
何かがあるわけでもない。
覚醒は全体的だ。
観照者には行為が含まれる。
だが観照を通して覚醒が可能になる。
なぜなら、
観照とは<意識的>な行為だからだ。
それは行動だが、意識的なものだ。
あなたは無意識でいながら、
何かをやるということはできる ―
通常の私たちの活動は無意識なものだ ―
だが、その中であなたが意識的になれば、
それは観照になる。
だから、通常の無意識的な活動から
覚醒に至る間は、観照することによって、
埋められうるギャップ、隙間がある。
観照とは覚醒に向かうひとつの方法だ。
観照は覚醒ではない。
だが、通常の活動、無意識の活動に
比べれば、より高い段階だ。
すでに何かが変わっている。
活動が意識的になり、
無意識が意識に取って代わられてきている。
が、さらにまだ何かが変えられなければならない。
つまり、活動が無活動に
取って代わらなければならない。
それが第二段階になる。
通常の無意識的な行動から
覚醒へとジャンプするのはむつかしい。
それは可能だが非常に骨が折れる。
だから、そのあいだの段階が役に立つ。
意識的な活動を観照することから始めるなら
そのときは、どんな意識対象もなく、
全くどんな意識活動もない覚醒への
ジャンプが容易になる。
これは覚醒が意識ではないことを
意味するのではない。
覚醒は<純粋>な意識だ。
だがそれを意識している者はいない。
意識と覚醒の間にはまだ違いがある。
意識はマインドのひとつの質であるが
マインド全体ではない。
マインドは意識的と無意識的、
その両方でありうる。
が、あなたがマインドを超越すると
どんな無意識もそれに対応する意識もなくなる。
そこには覚醒がある。
覚醒とはマインド全体が目覚めたということだ。
今やそこに古いマインドはない。
<意識>しているという質がある。
覚醒は全体的なものになった。
今やマインドそれ自体が
覚醒の一部になったのだ。
マインドが醒めているという言い方はできない。
ただ、意味深長に、マインドが意識していると
いうことはできる。
覚醒とはマインドを超越するという意味だ。
だから醒めている当のものはマインドではない。
マインドを超越し、マインドの彼方へ出て初めて、
覚醒が可能になる。
意識はマインドの一つの質だが、
覚醒は超越だ。
マインドの彼方へ越えていくことなのだ。
マインドはそれだけでは二元性をもたらす媒体だ。
だから、意識は決して二元性を超えられない。
それは必ず何かについての意識であり、
また常に意識する誰かがいる。
だから、意識はマインドの一部であり、
一区分なのだ。そして、マインドは
そのままでは一切の二元性、一切の分裂、
それが主体と客体のものであろうと、
意識と無意識のものであろうと、
一切の二元性、一切の分裂の根源なのだ。
二元性はどんなものでも、メンタル、心的だ。
覚醒は不二だ。だから、覚醒とは
ノーマインド、無心の状態だ。
では、意識と観照の関係は
どうなっているのだろうか?
観照とは一つの状態であり、
意識とは観照に至る手段だ。
意識的になり始めれば、
あなたは観照を達成する。
自分の行動を意識し、
日々起こることを意識し、
自分をとりまくすべてのことを
意識し始めればあなたは観照し始める。
観照は意識の結果として、
<影>としてやってくる。
観照は訓練することはできない。
観照は結果として、<影>として、
成果として、副産物としてやってくる。
意識すればするほど、
ますます観照に入っていき、
ますます観照者であるようになる。
だから、意識は観照を達成する方法なのだ。
それから、第二段階では、
今度は観照が覚醒を達成する方法になる。
だから、段階は三つある ―
意識、観照、覚醒だ。
が、私たちのいるところは最下位の地点だ。
つまり、無意識の中のいる。
無意識的な活動が私たちのマインドの状態なのだ。
意識を通して観照が達成できる。
その観照を通して覚醒が達成できる。
そして、覚醒を通して、
<無達成なるもの>を達成できるのだ。
覚醒を通してあなたはもう既に
達成されているものすべてを達成できる。
覚醒の後は何もない。
覚醒こそ最後のものだ。
動物の存在は無意識な存在だ。
人間としての存在はマインド的現象 ―
99%の無意識と1%の意識という存在だ。
この1%の意識というのは
あなたの1%があなたの99%の無意識を
意識しているということだ。
だが、もし自分自身の<意識を意識する>
ようになったとき、1%の意識は増大し続け、
99%の無意識は減少していく。
もし100%意識的になったら、
あなたは観照者sakshiになる。
観照者になったら、あなたはそこから
覚醒へジャンプできる跳躍点に達したのだ。
覚醒にあっては観照者は消え、
ただ観照だけが残る。
あなたは行為者を失い、
主体を失い、
自我中心的な意識を失う。
そうしたとき、
エゴ、自我なくして
意識だけが残る。
OSHO「瞑想―祝祭のアート」より
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