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眠りと瞑想

  • 執筆者の写真: Manish Nukii
    Manish Nukii
  • 2016年3月8日
  • 読了時間: 4分

タントラの教えを手短かに言うなら、

自分自身への深いくつろぎ、

自分自身への全面的なくつろぎだ。

あなたはいつも緊張している。

それこそがしがみつきであり、固執だ。

あなたは決してくつろがない。

決して、ゆだねの状態にない。

いつも何かしている。

そうすることこそが問題だ。

決して無為の状態にいない。

物事が起こっているとき、

何もせずにそこにいてごらん。

息は出入りし、血液は循環し、

体は生きて脈打ち、そよ風は吹き、

世界は回り続ける ―

そしてあなたは何もしない。

あなたは行為者ではない。

あなたはただくつろぎ、

物事は起こり続ける。

物事が起こり続け、

あなたが行為者でなければ、

それがくつろぎだ。

ところが、

あなたが行為者であり、

物事が起こるかわりに、

自分で物事を操作していたら、

あなたは緊張している。

眠っているとき、

あなたは部分的にくつろぐ。

それは全面的なものではない。

眠りの中でさえ、

あなたは操作を続ける。

眠りの中でさえ、

すべてを起こるがままにしておかない。

眠っている人間を見てごらん。

緊張していることがわかるだろう。

体全体が緊張している。

でも眠っている子供を見てごらん。

実にくつろいでいる。

あるいは動物だ ―

たとえば、猫。

猫はいつもくつろいでいる。

ところが、人間は眠っているときでさえ、

くつろいでいない。

緊張し、もがき、動き、何かと闘っている。

その顔には緊張がある。

夢の中でも闘ったり守ったりしている。

目覚めているときと同じことを、

内側のドラマとして繰り返している。

だからくつろいでいない。

深いゆだねの状態にない。

だからこそ、眠りがだんだん

難しくなってきているのだ。

心理学者によれば、もしこの状況が続けば、

まもなく誰も自然に眠れなくなる。

それで薬に頼るしかなくなる。

誰も自然に就眠できなくなる。

そんな日も遠くない。

人々はその途上にいる。

眠っているときでさえ、

たんに部分的に眠っているだけだ。

部分的にくつろいでいるだけだ。

瞑想とは最深の眠りだ。

瞑想とは、

全面的なくつろぎプラス何かだ。

つまり、

全面的にくつろぐと共に、

覚醒していることだ。

意識がそこにある。

全面的な眠りに覚醒を

加えたものが瞑想だ ―

完全に覚醒している。

物事は起こっているが、

あなたはもはや

抵抗することも戦うこともない。

何もしていない。

行為者が存在しない。

行為者は眠りについている。

ただ観照者だけがある。

非行為的意識だけがある。

もはや

何事にも悩まされることがない。

くつろぐ術を知っていたら、

もはや何事にも悩まされなくなる。

くつろぐ術を知らなかったら、

すべてに悩まされる。

すべてによってだ。

何かによって悩まされるのではない。

すべては口実だ。

その当人がいつでも

悩まされる状態にある。

ひとつのものに悩まされなかったとしても、

別のものに悩まされる。

必ず何かの原因を見つけ出す。

必ず何かの原因を作り出す。

もし何も外からやってこなければ、

何かを内から作り出す ―

何かの思考なり、観念なりを。

そして、それによって悩まされる。

とにかく口実が必要だ。

しかし、ひとたびくつろぐ術を知ったら、

もう何事にも悩まされなくなる。

世界が変わったわけでも、

物事が変わったわけでもない。

世界はそのままだ。

でも、もはやその傾向がない。

その狂気がない。

いつでも、悩まされる状態がもうない。

すると、自分の周りに起こることすべてが

安らぎとなる ―

くつろいでいればだ。

繁華街の喧騒でさえも

安らぎとなる。

それは自分次第だ。

それは内側の質だ。

中心へ行けば行くほど、

その質は増大する。

表層部へ行けば行くほど、

悩みは増大する。

だから、

あなたがよく悩むようなら、

あるいは、

悩むという傾向があるなら、

それが示すことはただひとつ、

あなたが表層近くに

存在しているということだ。

それ以外の何物でもない。

つまりそれは、

あなたが表面付近に住みかを

定めているという指標だ。

その澄かは偽りだ。

真の家は

中心にある。

自らの存在の

まさに

中心に

ある。

OSHO「ヴィギャン・バイラブ・タントラ 生の神秘」より

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