全存在が包含されれば、あなたは帝王となる。
- Manish Nukii
- 2016年4月11日
- 読了時間: 4分

<愛するものよ、今この瞬間、
心も、知も、息も、形態も、包含する>
覚えておくべき根本的な点は
包含的になるということだ。
排除してはいけない。
これこそこのスートラの鍵だ。
包含的になる、包含する。
包含し、成長する。
包含し、拡張する。
自分の身体で試し、
次いで外の世界でもやってみる。
木の下に座り、
木を見つめ、
それから目を閉じ、
その木を自分の内側に感じる。
空を見つめ、
それから目を閉じ、
空を自分の内側に感じる。
朝日を見、
目を閉じ、
朝日が自分の内側に昇るのを感じる。
もっと包含的に感じるのだ。
きっと途方もない体験が起こる。
木を自分の内側に感じたとたん、
自分が若返り、
爽快になったように感じられる。
それは想像ではない。
なぜなら、
木はあなたと共に、
大地に属しているからだ。
両方とも同じ大地に属し、
そして究極的には
同じ<存在>に根ざしている。
だから木が自分の中にあると
感じるときには、
木はあなたの中にある。
それは想像ではない。
そしてたちまち効果が感じられる。
その木の生気、
その緑、
そのさわやかさ、
過ぎ行くそよ風、
それが自分の内側、
ハートの中で感じられる。
要は、存在するものを
もっともっと
包含してゆき、
排除しないことだ。
多くの世界教師たちは
いろんな仕方で
このことを教えてきた。
イエスは言った、
「自分の敵を自分自身のごとく愛せよ」。
これは包含性のひとつの実験だ。
フロイトはかつて言った、
「なぜ敵を私自身のように
愛さねばならないのか。
いったいどうして
愛することができるだろう」。
彼の疑問は一見正当だ。
でも彼にはわかっていない ―
なぜイエスが敵を自分のごとく
愛せよと言ったのか・・・。
それは別に社会的、政治的なものではない。
別に社会を変えるためではない。
より良い社会を築くためではない。
それはあなたに、
存在や意識についての、
拡張した感覚を与えるためだ。
もし敵を自分の中に包含できたら、
もはや敵によって
害されることはなくなる。
と言っても、別にあなたが
殺されなくなるわけではない。
あなたは殺されることもある。
でも害されることはない。
害が現れるのは、
あなたが相手を排除するときだ。
相手を排除するやいなや、
あなたはエゴとなり、
分離し、ひとりになり、
<存在>から切り離される。
しかし敵を自分の中に包含すれば、
そのときにはすべてが包含される。
敵でさえ包含されるなら、
なぜ木も空も
包含されないことがあるだろう。
敵を強調するのもそこに理由がある。
敵でさえ自分の存在の中に包含できたら、
もう何でも包含できる。
何かを除外する必要はない。
もし敵を自分の中に包含できたら、
そのときには
敵でさえも活力やエネルギーを与えてくれる。
彼は決してあなたにとって有害ではない。
彼はあなたを殺すこともできるだろう、
でもあなたを殺そうとしているときでさえ、
彼はあなたを害することはできない。
その害は、排除に伴って、
あなた自身のマインドから現れる。
ところが、私たちの現状は全く正反対だ。
友人でさえ包含されていない。
自分の恋人でさえ包含されていない。
恋人と一緒にいるときでさえ、
相手と溶け合うことがない。
あなたは分離したまま、
自分自身をコントロールし、
己を失うまいとする。
そのせいで愛は不可能になっている。
己を失わない限り、
どうして愛することができるだろう。
あなたは自分を保っていたいし、
恋人の方も自分を保っていたい。
どちらも溶け合うつもりがない。
どちらも包含するつもりがない。
互いに相手を除外し、
自分自身を括弧に入れる。
そこには出会いも、
溶け合いも、
交感もない。
もし恋人でさえも包含できなければ、
あなたの存在は貧困の極みとなる。
あなたはひとりであり、貧しい。
乞食だ。
一方、全存在が包含されれば、
あなたは帝王となる。
だから覚えておくこと。
包含を生活の基本とするのだ。
瞑想としてだけではなく、
生活の基本、生活の様式とする。
よりいっそう、
包含するよう努める。
包含すればするほど、
拡張すればするほど、
あなたの境界線は
<存在>の彼方へと
後退する。
そしてある日、
ただ
あなただけがあり、
<存在>全体は
包含
されている。
OSHO「ヴィギャン・バイラブ・タントラ
存在とひとつに」より
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