top of page

愛は沈黙の中でしか花咲かない

  • 執筆者の写真: Manish Nukii
    Manish Nukii
  • 2016年4月18日
  • 読了時間: 3分

人間は沈黙を全く失っている。

何もしていないときでさえ、

沈黙していない。

マインドは絶えずあれやこれやしている。

そのようにいつも何かしているせいで、

そのように内側でしゃべり続けているせいで、

何ものにも触れ合えない。

自分の愛する人々に対してさえ、

触れ合いはない。

このおしゃべりが続いているからだ。

自分の妻と一緒にいるときでさえ、

あなたは自分自身の

マインドの中でしゃべり、

妻は彼女自身の中でしゃべっている。

両方共にしゃべっている。

二人は互いに遠く隔たっている。

はるか彼方にいる。

まるで、ひとりがある星にいて、

もうひとりが別の星にいるかのようだ。

その間には無限の空間がある。

それで愛情が欠けているように思い、

ふたりは互いを非難する ―

「あなたは私を愛していない」と。

でも実際のところ、

そんな問題ではない。

愛が不可能なのだ ―

愛とは沈黙の花だ。

愛は沈黙の中でしか花咲かない。

なぜなら、

愛は融合の中に花咲くからだ。

無思考になれない人は、

愛の中に入れない。

すると祈りの中にも不可能だ。

でも、祈っているときでさえ、

私たちはおしゃべりする。

私たちにとって、

祈りとは神との

おしゃべりでしかない。

私たちにとって

おしゃべりは根深い

習慣となっている。

だから教会や寺院に行くときでさえ、

おしゃべりをやめることがない。

私たちは神とおしゃべりをし、

神と語る。

これは全くのナンセンスだ。

神には、<存在>には、

あなたの言語がわからない。

<存在>にわかる唯一の言語、

それは沈黙の言語だ。

その沈黙とは、

サンスクリット語でもなければ、

アラビア語でも、英語でも、

ヒンドゥー語でもない。

沈黙は普遍だ。

それは誰のものでもない。

世界には四千の言語がある。

そして誰もが自分の言語に

閉じ込められている。

相手の言語を知らない限り、

触れ合うことができない。

もし私があなたの言語がわからず、

あなたにも私の言語が

わからなかったら、

私たちは触れ合うことがない。

いつまでも見知らぬ者同士だ。

ふたりは互いに通じ合えないし、

愛し合えない。

その理由は、根本的に普遍的な

言語を知らないことにある。

その言語とは

沈黙だ。

実際、人は沈黙を通してしか

触れ合えない。

もし沈黙の言語を

知っていたら、

どんなものとでも触れ合える。

なぜなら

石は沈黙しているし、

木々も沈黙しているし、

空も沈黙しているからだ。

沈黙は<存在>的だ。

単に人間的であるだけでなく、

<存在>的だ。

あらゆるものが

沈黙というものを知っている。

あらゆるものが

沈黙の中に

存在している。

石を手に取るとき、

石は自分の内側で

おしゃべりはしていないが、

あなたはおしゃべりしている。

だからこそ、

あなたは

その石と触れ合えないのだ。

また、その石は

開放的で、無防御で、受容的だ。

その石は

きっとあなたを

歓迎してくれる。

でもあなたは

おしゃべりしている。

石にはそのおしゃべりがわからない。

それが壁となる。

だからあなたは、

人間を相手にしてさえ、

深い触れ合いがもてない。

だから親しくなれない。

言語が、

言葉が、

すべてを破壊する。

瞑想とは沈黙だ。

要は何も考えないことだ。

何も考えずに、ただ在る ―

解放的で、受容的で、

すべてを受け入れ、愛に満ちて ―。

でも何も考えない。

すると、

無限の愛が起こってくる。

あなたは自分の思考の中に

閉じこもっている。

何ものも

それを突き破れない。

思考を突き破るとしたら、

落とすよりほかない。

思考を落とせば、

<存在>全体が

あなたを

貫く。

OSHO「ヴィギャン・バイラブ・タントラ

 存在とひとつに」より

EndFragment

EndFragment


 
 
 

Comentários


bottom of page