top of page

子供のように、お祭り気分で

  • 執筆者の写真: Manish Nukii
    Manish Nukii
  • 2016年6月20日
  • 読了時間: 2分

子供は踊り、飛び跳ね、駆け回る。 子供に尋ねてごらん、「どこへ行くの?」と。  子供はどこへも行きはしない。 子供はあなたのことを馬鹿だなと思う。 子供はいつも大人のことを馬鹿だと思っている。 「どこへ行くの?」とは 何と間抜けな質問だろう。 どこかへ行く必要があるのだろうか。 子供はあなたの質問に答えられない。 なぜなら、 その質問は的外れだからだ。 彼はどこへも行きはしない。  ただ、肩をすくめるだろう。 「どこへも行かないよ」と言うだろう。 するとゴール指向のマインドは尋ねる、 「それなら、なぜ走っているんだい?」 ――私たちにとって行為とは それが何かになってこそ、 意味をなすものであるからだ。  だから私はあなたに言う―― 行くべき場所はどこにもない、 ここがすべてだ。 存在全体は この瞬間に最高潮に達し、 この瞬間に集中している。 存在全体はすでに この瞬間に注がれている。 そこにあるすべてが この瞬間に注がれている。 ――それは今ここにある。 子供はただ エネルギーを楽しんでいる。 子供は 充分すぎるほど手にしている。 彼が走っているのは、 どこかへたどり着かねば ならないからではなく、 あり余るほど持っているからだ。 彼は走らずにはいられない。  動機を持たずに行動しなさい。 ただ、 エネルギーのあふれるままに、 分かち合いなさい。 でも、 取引してはいけない。 駆け引きしてはいけない。 持っているがゆえに与える。 ――見返りを得るために 与えるのではない。 そんなことをしたら、 惨めになるだろう。  取引をする者はみな地獄へ行く。 最高の商人や交渉人を 見つけたかったら、 地獄へ行くといい。 彼らはそこにいるだろう。 天国は商人の場ではない。 天国は祝祭の人のための場だ。  では実際には、 何をすべきだろう?  もっと気楽になること。  もっと今ここにあること。  もっと行為そのものになり、  もっと非活動的になること。  もっと空洞になり、  空っぽになり、  受動的になること。  もっと観る人になること―― 無頓着で、 何も期待せず、 何も欲しがらない。 あるがままの 自分に 満足すること。 お祭り気分でいることだ。 OSHO「こころでからだの声を聴く」より


 
 
 

Comments


bottom of page