偽りの関心をいかに捨てるか
- Manish Nukii
- 2016年6月29日
- 読了時間: 4分

ある友人が尋ねている。 「精神性は世俗的な関心よりも 高次のものであるのに、それに 負けているのはなぜですか?」 これまで精神性が 負けたことはない。 今日まで、精神性が世俗的な関心に 負けたことは一度もない。 あなたは、私のことを 間違っていると言うだろう。 それは、あなたが毎日、 自分の内側で負けたと感じているに 違いないからだ。 しかし、尋ねるが、あなたは 純然たる精神性への関心を 抱いているのかね? あなたが言っていることの真意は 圧倒されるほどのものが、 あなたの内側には存在していない ということだ。 あなたが精神性について 抱いていることは どこかで聞きかじって来た 単なる概念に過ぎない。 あなたは自分の生において、 精神的な質が 世俗的な関心に負けていると 思っているに違いない。 しかし、その精神的な質とやらは どこにあるのかね? つまり、負けていると思うことは すべて、想像に過ぎないということだ。 それはただ存在しないのだ。 あなたは常日頃、 憎しみが勝ち、愛が負けると 思っているに違いない。 しかし、どこに愛があるのかね? あなたは常日頃、 金銭を得る欲望が勝ち、 それが神性を知る欲求を 打ち負かしていると 思っているに違いない。 しかし、神性を知る欲求は どこにあるのかね? それが本当にあるのなら、 いかなる欲望もそれを 打ち負かすことはできない。 それが本当にあるなら、 いかなる欲望も存在すらできない。 それが打ち負かされる という問題は生じない。 あなたが「世俗的な関心」と 呼ぶものは精神的な関心が 生まれたら消えるだろう。 私のあらゆる努力が 世俗的な関心を取り除くことよりも、 あなたの中に精神性への関心を 生み出すことを重視しているのは このためだ。 私の重点は積極的なものに置かれている。 積極的な精神性への関心が生まれると、 世俗的な関心は薄れる。 内側に愛が芽生えると 憎しみは内側から消え去る。 愛と憎しみの間に衝突が あったことは一つもない。 内側に真理が芽生えたら、 虚偽は内側から消え去る。 真理と虚偽が対立したことは 一度もない。 内側に非暴力が芽生えたら 暴力は消え去る。 非暴力と暴力は、 これまで一度も対立したことがない。 それは負けるという問題ではない ・・・競走すら存在しない。 暴力は非常に弱いものだから、 非暴力が芽生えた瞬間に暴力は消え去る。 非精神性は非常に弱いものであり、 俗世はもろく、 とてもはなかないものだ。 覚えておきなさい―― 打ち負かされていると感じたら あなたは自分では体験しなかった。 あなたの内側では何も起こらなかった。 あなたは光が にあると思っているが、 そこには何もない―― だから、闇が勝つ。 光があるとき、 まさにその存在が闇を圧倒する。 光が闇と闘うことはない―― まさにその存在が、その存在こそが、 闇の敗北となるのだ。 これを心にとめておきなさい。 そして、打ち負かされるという 空虚な精神性への関心や 宗教的な感覚とやらを 投げ捨ててしまいなさい。 空虚だと知れば、 それは意味を持たない。 いかに真摯な精神性への関心を 生み出すかという理解は、 偽りの関心をいかに捨てるかを 理解して、初めて訪れる。 朝、太陽が昇り、 闇が相変わらず残っていたら、 太陽が昇ったのを 夢見ていただけなのだ、 と理解しなさい。 太陽が昇るとき、 闇は自ずと消え去る。 太陽は決して、 闇と出会ったことがない。 太陽は、闇のようなものが 存在するのを知らない。 そして、知ることは ありえないだろう。 これまで、魂は世俗的な 欲望の存在を知らなかった。 魂が目覚めるとき、 欲望はどこにも見つからない。 そのふたつが出会うことは 決してなかった。 この基準を覚えておきなさい。 それは役に立つだろう。 OSHO「ディヤン・スートラ」より
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