惨めな人たちだけが自分について語る。
- Manish Nukii
- 2016年7月5日
- 読了時間: 5分

ある人が惨めだとしたら、 彼は賢者でないことがわかる。 そして、いいかね、自分が惨めなのか、 至福に満ちているのかに 気づきもしない人こそ、 至福に満ちている。 惨めさと至福を突きぬけた人だけが 至福に満ちている。 彼こそ賢者だ。 ほんの数日前、一人の女性が 私のところにやってきた、 彼女は、自分の夫が不義を犯し、 不埒であることを悲しんでいた。 私は彼女に言った、 「彼が不埒なら、 <彼>の方を悲しませることだ。 不義を犯したのだから、 彼は悲しいだろう。 だが、どうして、 <あなた>が悲しむのかね? 他人のふしだらな振る舞いのせいで、 悲しんでいる人は初めてだ。 あなたが悲しいのなら、 その理由はあなたの中にある。 彼がふしだらなことは、 あなたの惨めさの原因にはなりえない。 彼がふしだらであることは、 <彼>の惨めさの原因にはなりえる。 だが、私はあなたの夫を知っている。 ――彼は悲しんでなどいない。 ふしだらかもしれないが、 彼は悲しんでいないよ」 そして私は言った、 「ふしだらで幸せなら、彼は間違いなく あなたより徳がある。 ――あなたは貞節なのに 幸せでないのだから。 あなたは奇跡を行なっている―― 彼はひしだらかも知れないが、幸せだ。 あなたは貞節かも知れないが、不幸だ。 あなたの貞節には、 いくらかふしだらなことがあるに違いない。 そして、あなたの夫のふしだらさには いくらか貞節なところがあるに違いない。 さもなければ、こんなことは 起こらなかっただろう」 そこで、私は言った、 「これを基準にしなさい―― 不幸なときは、自分の中に 何か過ちがあると理解するのだ。 惨めさというものは、 誤ったものの見方に関連しているからね。 あなたは夫の振る舞いのせいで 不幸になっているのではない。 夫が貞節であるべきと 期待するから、不幸なのだ。 あなたが不幸なのは 自分の貞節さゆえに、 自らの規律や道徳性の痛みに 苦しんでいからだ。 そして、あなたの夫は 自分を楽しんでいる。 あなただって、楽しみたい。 内心あなたも、夫と同じことを したいと思っている。 でも、それだけの勇気がないのだ」 「あなたは、内側の何かのせいで、 悲しんでいる。ふしだらに なりたいなら、なりなさい。 だが、少なくとも不幸になってはいけない。 幸せになりたいなら、なりなさい。 だが、貞節という重荷を 持ち運んではいけないよ」 私自身の理解はこうだ―― 生において、至福を求めるなら 人は自然と道徳的になる。 なぜなら、至福に満ちていることは ふしだらな行為がある限り、 開花しないからだ。 私はあなたに道徳的で ありなさいとは言っていない。 至福に満ちていなさいと 言っている。 何世紀にもわたって、 あなたは道徳的であれと 言われてきたが、 惨めになった以外 何も起こらなかった。 私はあなたに至福に 満ちていなさいと言う。 至福に満ちていることが基準だ。 あなたは常に 徳のあることを行なえば 至福に満ちると言われてきた。 私はあなたが至福に満ちていれば、 あなたには徳がある、と言おう。 あなたは罪を犯せば 惨めになると言われてきた。 私はあなたが惨めなら、 あなたは罪深い、と言おう。 惨めさとは罪であり、 至福には徳がある。 正しく理解するなら、 至福に満ちた人は自分について語らない。 惨めな人たちだけが自分について語る。 あなたも知っているだろう。 悲しい人に会うと 彼はしゃべり続ける。 自分の不平について 不幸をこぼし続ける。 自らの至福を笑っている人を 見たことがあるかね? 自らの惨めさに泣いている人は 見たことがあるだろうが、 自らの至福を笑っている人は 見たことがないだろう。 なぜ至福について話すのか? 至福の定義を教えよう―― 至福とは、あなたがそれに全く 気づいていないときのことだ。 というのも、あなたが気づくのは 痛みばかりで、決して 健康には気づかないからだ。 頭に痛みがあるとき、 あなたは頭に気づく。 身体が病んでいると、 あなたは身体を知る。 呼吸に何か問題があると、 呼吸に気づくようになる。 さもなければ、呼吸は続く。 誰がそれに構うだろう? 健康であればあるほど、 身体を感じなくなる。 そして、これはあなたに言っておこう。 ――これは内なる基準でもある。 自分は在ると意識すればするほど、 あなたの魂は病んでいるのだ、 と理解しなさい。 「私は在る」という知識は 魂の病いだ。 「私」という知識なしに、 ただ存在するとき、 そのときあなたの実在は健全だ。 そのときあなたはわが家に帰る。 だから、仏陀はそれを正しく語った ――魂はない、と。 これは健全な魂―― アナッタ、無魂の定義だ。 「魂」と言えば、既に病いが入り込んでいる。 「私」とは魂のことだと彼は言う―― 「私」を意識すると、そのとき 何らかの問題がある。 全く「私」を意識しないと、 そのとき雲ひとつない 空(そら)、 無限だけが残る。 OSHO 「.シャワリング ウィズ クラウズ 女性の覚者 サハジョの詩」
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