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愛は、今ここ

  • 執筆者の写真: Manish Nukii
    Manish Nukii
  • 2016年7月12日
  • 読了時間: 3分

生きている間に真理を知ることが

できなかったら、死んだときにどうして

真理を知ることができるのかね?

生はあなたに三つの次元からなる

機会を与える――

身体の、心の、魂の、

死は二つの次元をあなたから取り去る。

あなたは生のひとつの次元、

魂のものだけになる。

身体は汚いものだから

魂は歓喜と結びつくと思うこと――

それはすべて幻想だ。

今あるとわかっていること、

それがその後にもそこにある。

もしあなたに<まさに今>

それを得ることができたら、

それで初めて

あなたはそれを

<そのあとも>

得ることができるようになる。

カビールは<今ここ>を

生きることにまさに断固として

賛成している。

 だが、人々は空想に、夢に

興味を持っている。

人々は実際には成長には

興味を持っていない。

彼らは光を見ること、

ヴィジョンを見ること、

内なる声を聴くこと、

クンダリーニの上昇を感じること、

奇跡、

それらのことに興味を持っている。

人々はごみの方に興味を持っている。

度々、ある弟子がマスターに手紙を書いて、

自分のスピリチャルな成長が

マスターにもわかるだろうと、

短い言葉で自分の姿勢を要約していた。

 最初の手紙は彼はこう書いた。

「私は内なる覚醒が大きく

広がっていくのを感じています」

すると、マスターはその手紙を

くずかごに捨てた。

 二番目の手紙にはこう書かれていた。

「すべてのことが相関関係にあり、

互いにその一部だということが

私にはわかります」

が、マスターは無視した。

 次に来たのは

「神はすべてです」というものだった。

マスターはあくびをした。

 その次の彼の言葉は

「宇宙の一つ一つのものごとが

完璧さのエッセンスです」

というものだった。

マスターは読み返すこともしなかった。

 それから、彼はこう書いて来た。

「私のすべての行動は

最も些細なものであっても、

スピリチャリティの深遠な顕れです」

が、それを読むとマスターは

「あーあ」と言った。

 それから「あなたに書いているとき、

私は時のない至福のエクスタティックの

境地に坐っています」

が、マスターは手紙を

開けることすらしなかった。

 だが、その後、便りが途絶え、

マスターは弟子に手紙を書いて、

現在の自分の姿勢を報告することを

怠っていると注意した。

彼は、返事をよこし、こう答えた。

「誰が気にするものか」

すると、マスターは大笑いして喜んだ。

これこそが本当のスピリチャルの

進歩だったからだ。

 空想の犠牲者になってはいけない。

スピリチャリティーは

センセーショナルな体験ではない――

それは成熟、

それは手放し、

それは無欲になることだ。

実際には何も体験されていない。

スピリチャリティーは

実際には体験ではない。

というのも、

体験はすべて、

体験者とかけ離れたもので

あらざるを得ないからだ。

スピリチャリティーとは

すべての体験が消えることだ。

あなたはひとり取り残され、

あなたの意識の中には

どんな対象もない。

意識は鏡のように純粋で、

そこには何ひとつ

映し出されていない。

 何ひとつ映し出されていない、

その鏡のような意識が

スピリチャリティだ。

そして、

それは、

まさに、

今しか起こらない。

今でなければ、永遠にない。

 愛は今、交わされなければならない。

そして、ほかに時はない、

今が唯一の時だ。

ここが唯一のスペースだ。

もし神性を帯びたものと

愛を交わせるなら、

<今>交わすがいい。

「明日」と言ってはいけない。

「あとで」と言ってはいけない。

「次の生で」と言ってはいけない。

それを先延ばししてはいけない。

先に延ばすことは

存在と神への最大の侮辱のひとつだ。

 神には今、用意がある。

それなのに、

あなたは「明日」というのか?

これは存在を侮辱することだ――

しかも、あなたは

多くの多くの生にわたって

侮辱してきた。

これこそが、罪、原罪だ。

OSHO

EndFragment


 
 
 

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